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ヘンリー・モーズリーを偲ぶ

もっと光を(人物編)

次の図は、一昨年柏のベクミルさんのシンチレーションスペクトロメータで測定させて頂いた、マントルに含まれるトリウム系列の放射性物質の放射性壊変に伴って放出されたγ 線のスペクトルです。

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霧箱実験の際にα線を見るためにしばしば用いられるマントルですが、トリウム-232から鉛-208に至るまで、α崩壊やβ崩壊をしながら、同時に様々なエネルギーのγ線 を放出している様子が良く分かります。 そんな中で、注目して頂きたいのは、赤い矢印で示した最も大きな値とその次の二つのピークです。実は、これらはγ線由来のピークではなく、放射性壊変に伴って放出されたγ 線によって、遮蔽の鉛から二次的に叩き出されたX線に由来するピークなのですが、今日の主人公であるヘンリー・モーズリーに深く関係します。そして、2014年8月10日はそのモーズリーが27歳という若さで戦場で命を落として99年目の命日となります。これより、モーズリーの業績と共に、このスペクトルのピークの持つ意味を掘り下げてみたいと思います。

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1887年、オックスフォードの解剖学及び生理学の教授であったヘンリー・N・モーズリーの元に生まれ、後にイートン校で物理と化学で優秀な成績を修め、若くして亡くなった父の後を追うようにオックスフォード大学に学びます。1910年、オックスフォードを卒業すると、マンチェスター大学のラザフォード研究室の門を叩きます。 ラザフォードと言えば、放射性物質の研究からα線β線を発見し、その功績から1908年にノーベル化学賞を受賞するなど、当時この分野で最先端を行く研究室の一つと言えるでしょう。更に、この2010年と(1910年と:8/11訂正)言えば、ラザフォードの元でガイガー(あの測定器に名を残すその人です)とマースデンによっていわゆる「ラザフォード散乱」の実験がなされていた時期に当たります。 モーズリーも当初、こうした放射性物質の研究を進め、アクチニウム系列の放射性壊変物質の中から、現在ポロニウム215として知られる放射性物質半減期が1/500秒という、当時知られていた放射性物質の中で最も短い半減期を持つことなどを見出だすなど、類まれな実験の才能を開花させます。 この当時、中性子の存在こそ分かっていませんでしたが、同じ化学的性質を持ちながら異なる原子量を持つ「同位体」の存在が知られるようになり、それらの性質が次々と明らかになっていった頃でした。

しかし、1912年に大きな転機が訪れます。モーズリーは、ドイツのラウエらによるX線の回折現象の発見を知るや、これを新たなテーマにすることを決め、ボスであるラザフォードを説き伏せ実験を始めます。 当初モーズリーも、同じイギリスのブラッグ父子と同様に様々な結晶からの回折や干渉現象を研究していましたが、ある頃から金属などの元素固有の特性X線に注目するようになります。そして、様々な元素の特性X線の波長を系統的に調べることで元素の持つ本質的な性質を明らかに出来るのではないか?と考え、12種の元素を選び次の写真のような結果を得ました。

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図は、縦軸に原子番号、横軸に特性X線の波長を取り並べたものですが、原子番号の大きな元素ほど波長が短く(振動数が大きく)明らかに何らかの関係性のあることが分かりま す。それだけでなく、ある元素のスペクトルに他の元素のスペクトルと同じ波長のスペクトルが見られることが分かります。例えば、純粋な亜鉛が使えなかったため代用した真鍮(Brass)のスペクトルには、期せずして銅のスペクトルと同じ波長のスペクトルが見られます。これは、その元素が純粋な物質からなるのではなく、そのスペクトルをもたらす元素が不純物として混在していることの表れです。この結果は現在では蛍光X線分析法として、化合物の分析に応用されている方法の先駆けでもあります。

そもそも「原子番号」は、このおよそ半世紀前の1869年にロシアのメンデレーエフによって周期表がまとめられた際に、単に順番を示す量として登場しました。メンデレーエフ周期表を化学的性質に基づき作成したため、所々原子量の大きさが逆になることが分かっていましたが、半世紀を経てもその理由は不明でした(それでも単純に原子量の順に並べなかったことが、メンデレーエフの慧眼には違いないのですが)。 モーズリーは、この実験結果から特性X線の振動数の平方根原子番号の一次関数で表せるという法則を見出だしました。これは、現在ではモーズリーの法則と呼ばれています。

この法則は、ラザフォード並びにボーアによって築かれた原子モデルを説明する上でも、重要な意味を持つこととなります。 まず、師ラザフォードはガイガー、マースデンの実験から原子の中心には正の電荷を帯びた核が存在するというモデルを示しました。そして、モーズリーの法則の示す原子番号こそ、この正の電荷の数すなわち陽子の数に他なりません。この結果から、単なる並びの序数に過ぎなかった原子番号に、はじめて物理的な実体が伴ったとも言えるでしょう。 またラザフォードのモデルに続いてこの1913年に提案されたボーアのモデルでは、この正の電荷を持つ核の周囲を、一定の軌道で電子が回っているとしています。モーズリーの法則は、特性X線の振動数(すなわち波長の逆数)が、電子の軌道間の遷移に依存することを強く示唆していました。

モーズリーは更に実験を重ね、より多くの元素から同様な結果を得ます。この結果は、モーズリーの法則が普遍的法則であることを示す見事な直線を示しただけでなく、当時未発見であった元素の存在をも示唆していました。まさに、歴史に残る美しい成果だと言えるでしょう(グラフは次のリンクを)。

1914年、モーズリーは国際会議でこれらの成果を発表すべくオーストラリアへの船旅に出ます。しかし、この会議へと向かう航海の途上で、いわゆる欧州の火薬庫からあがっ た火の手はやがて第一次世界大戦へと発展します。会議からの帰途の航海で軍隊への志願を決めたモーズリーは、その翌年の1915年には、英国陸軍の通信部隊を率いる中尉として現在のトルコにあるガリポリ半島上陸作戦の戦場の真っ只中に身をおいていました。そして、8月10日オスマン=トルコ軍の狙撃兵の放った銃弾が彼の頭部を貫き、帰らぬ人となりました。この戦いの戦況は苛烈を極め、最終的には両軍合わせて十万人以上もの戦死者を出したと言われ、多くの戦死者と共に現在もこの地に眠っているとのことです。 なお、モーズリーは戦地へと赴く際に、もしもの時には遺産を全て王立協会に寄付し、実験物理に役立てるようにとの遺書を残していました。この遺産は後に親族によって増額され、彼の名を冠した奨学金として活かされているとのことです。 ノーベル賞は生きている者にしか贈られないため、充分な成果を遺しながらもモーズリーはその栄誉を受けることはありませんでした。彼の死後10年が経過した1925年、シ ーグバーンが同じX線分光学でノーベル物理学賞を授賞した際に、ノーベル賞委員会はモーズリーの業績に触れ、讃えました。しかし、そうした栄誉よりも生きて研究を続けていたなら、どれほどの成果を残しただろうか?と惜しまれてなりません。

【参考】

モーズリーの法則(1914年)と周期律における原子番号 http://fnorio.com/0141Moseley_1914/Moseley_1913.html

偉人たちの夢(73)モーズリー http://sc-smn.jst.go.jp/C990501/detail/C020501073.html

バーナード・ヤッフェ著(竹内敬人訳)「モーズリーと周期律(元素の点呼者)」河出書房新社

 (8/11追記)American Physical Societyも追悼の記事を掲載していました。 http://www.aps.org/publications/apsnews/201208/physicshistory.cfm